対談

《 対談シリーズを始めていくにあたり 》
20年近くAV男優をやってきました。快楽をひたすら追求するものから、互いの体を物扱いするようなものまで色々なセックスを経験しました。ひとの何生分ものセックスをしていく中で、いろいろな感情や感覚が生まれ、多くのことに気づき学びました。特殊な経験ではありますが、性と向き合うことで人間の深淵を覗き見ることが出来たような気がしています。
 
医学の進歩により肉体的接触のないところから命が誕生することが可能になってきました。でも、セックスから生まれてきた人が多数派であるのがいまだ現状です。生まれてきた時点で関わっているセックスなのだから関わらないわけにはいかないのに、多くの人は語りたがらないし、そちらに目を向けることもしません。なぜか?セックスがプライバシー性の高い行為だからか。それだけでしょうか。一般論としても口にすることをはばかる風潮があります。それは、セックスが持つ後ろめたさや罪悪感、恥ずかしさのせいでしょうか。だとしたら、それらはどこから来るものなのでしょうか。そして、それらは本質的に正しい価値観なのでしょうか。
 
多くの経験により掴んだと僕が思っている人間の本質が、果たして“正しい”ものなのか。その答え合わせを入り口として、セックスとは?性とは?人間とは?といった普遍的なところにまで視野を広げ色々と考えていきたいと思います。そこで、色々な方のお力を借りていきます。僕が個人的に影響を受けた書籍の著者の方や、お話している内容に興味を持っている方々に直接お会いし、お話をさせていただき、様々な価値観や多くの見識を教えてもらいたいと思います。個人的な経験とは別の角度からも、人間の深淵を覗き見てみたいのです。
 
 
第一回  植島啓司さん

《 プロフィール 》
植島啓司(うえしま・けいじ) 宗教人類学者。東京大学卒。京都造形芸術大学教授。40年以上、世界各地で宗教人類学調査を続けている。『日本の聖地ベスト100』(集英社新書)など聖地巡りの他に『官能教育 -私たちは愛とセックスをいかに教えられてきたか』(幻冬舎新書)や『39歳 女の愛の分岐点』(メディアファクトリー)や『突然のキス -恋愛で読み解く日本文学』(ちくま文庫)などの著書も多数。
 
《 はじめに 》
性は個人的なことでもあるし、社会的なことでもあります。僕が仕事を通して考えてきたのは前者の方が中心で、内面と向き合う際の性でした。ところが、撮影現場だけではなく、執筆や講演といったパンツを脱がない活動が増えていくと、社会と性といったことを考える機会が増えてきたのです。
 
人間は、生き残っていくために高度な社会を築いてきた生物です。でも、必ずしもその社会が人間全てにとって素晴らしい社会ではありません。非理性的だったり極端な個人主義者によって傷つけられるだけではなく、社会の規則、価値観、全体の持つ空気感によって苦しんだり尊厳を踏みにじられたりします。人間が社会を作ったはずなのに、その社会によって人間はこうあるべきだと規定されるようになっています。もちろん社会によって生活しやすくなった面も多々あるし、個人が救われていることも多いです。生き残っていくことと、生きやすさでは目的が違います。前者は種の保存。後者は人生の謳歌。社会は、その種、人類、国家、コミュニティ、家族が生き残っていくことを最優先にして、個人的な生きやすさを犠牲にする傾向があります。性は、それぞれの社会が生き残っていくための手段として重要でも、人生を、個人的時間を楽しむためには重要視されていません。その傾向は年々増しているようです。
 
社会性と性の謳歌は対立せざるを得ないことなのでしょうか。今の日本における性のあり方は、歴史的に見るとどのような捉え方になるのか。個人的には、日本における現状の性のあり方には疑問だらけで、もっと自由に性を考えたり語ったり楽しんだりしていけるようになって欲しいと思っています。そういった気持ちが前面に出過ぎて、僕が気持ちを伝えてばかりいるようになってしまっているのを差し引いてもらいつつ、植島先生との対談をお読みいただければ幸いです。
 
 
 
《 植島啓司 ✖ 森林原人 》


社会の約束事を疑う
 
森林原人(以下 森林) 先生が書かれた『快楽は悪か』(朝日文庫、1999年発行)を読ませていただきました。時代性の高いテーマが多く取り上げられていますが、全編を通して既存の価値観や固定観念に縛られることなく、物事の本質を見つけだし捉え直していこうという意識改革を提案されていて、その姿勢に大変共感いたしました。2013年に出された『官能教育』(幻冬舎新書)で先生もおっしゃっていたように、現行の結婚の制度が唯一の正解だとは思えません。僕は、結婚(制度)に恋愛(感情)とセックス(行為)を閉じ込めていく三位一体論が、ほとんどの人にとって不可能なんじゃないかと思うように10年ぐらい前からなってきました。制度と感情と行為は別物なのに、三位一体セットがあたかも自然であるように思い込まされているだけなんじゃないかと。本日お話を聞かせていくにあたって、まず始めに、そもそも先生が目の前にある価値や考え方を当たり前だと鵜呑みにしないようになっていったきっかけを教えていただきたいです。 
 
植島啓司(以下 植島) 幼い頃からそういう発想が好きでした。社会の倫理や枠組みみたいなものを、常にいかがわしいと思っていましたので。あくまでもそれらは建前の議論であって、普通の人々はもっと違った考え方をしていると思っていました。
 
森林 そうなのですか。でも、かつての僕もそうだったように、いわゆる普通の人の多くは、生まれた環境にあるものを当たり前だと思うはずです。僕と同世代のトレンディードラマ全盛期を知っている人たちの多くは、何も疑問を持たずに恋愛結婚が素晴らしいものだと思い込んで育っています。それは洗脳といってもいいレベルで信じています。しかし先生はそういうものに縛られることなく、いかがわしいものって思ってきたって…なぜでしょうか?
 
植島 それはやはり1960年代に青春を送った世代の問題だからかもしれません。フラワーチルドレンとかカルチェラタンとかスチューデントパワーとか、時代は大きく転換しつつあり、社会のすべての約束事は欺瞞であると考えられていました。また、小学生くらいの頃から先生や学校とかに反発していたこともあります。そのルーツはどこから来ているのかわからないけれど、でも、虚飾であるとか、欺瞞であるとか、不寛容であるとか、そういう事に対してはすごく敏感だったので。
 
森林 幼少期をどういった時代で過ごしたのかといったことが大きいのかもしれませんね。僕は社会に対して疑問をそれほど持たず、意識高くなかったかなあ、と思っていまして。
 
植島 まあ、世代的にわりと穏やかな感じですね。
 
森林 はい。全共闘世代に比べたら全然。僕は79年生まれで、バブル時代は幼すぎてよくわかっていません。目の前にある世界は平和で、このままがいいんだと思っていました。改革や何か変えてやろうなんて考えず、この世界の中で成功するんだと夢見ていました。月9(フジテレビの月曜の夜9時からのドラマ枠)で必ず恋愛結婚するものだから、恋愛して結ばれることこそが幸せだと、そこに憧れていいました。
 
植島 選択肢が恋愛結婚しかなかったんですね。僕らの世代はお見合いか恋愛かの選択で、雑誌の特集もいつもそんなようなことをやってましたよ。でも、お見合い結婚は60年代を境にほとんど姿を消しましたね。それはそれでいいのですが、結婚の前提が恋愛しかないというのは、なかなか難しい時代になったなという印象でした。
 
森林 恋愛はみんながするものだという価値観の中で育ってきていて、その段階の中でセックスがあって、恋愛の果てのセックスこそが素晴らしいんだと思い込んできました。でもAV男優という特殊な仕事をしていく中で、意外とそれは嘘なんじゃないかと疑問を持つようになったんです。



植島 なるほどね。どんな疑問ですか?
 
森林 撮影現場で色んな女優さんと話していると、旦那や恋人とのセックスの不満について赤裸々に話をしてくれるんです。その数があまりにも多くて。「女性ってコワい」って思う反面、今まで思い込んでいた完全に満たされるカップルは物語の世界だけのことなんじゃないかって。で恋愛の果てのセックスって幸せじゃなかったの?恋愛至上主義の果ての結婚制度もどうなの?と。
 
植島 近年では恋愛結婚から始まる一夫一婦制を支える倫理観はいまや崩壊しつつありますよね。かつては女には選択肢がなく、結婚し子供を生み母親となって家を守る生き方しか認められてこなかった。しかし、1970年代から80年代にかけて女性の社会進出がどんどん進むにつれ、女性がそれなりの経済力を持つようになって激変していきました。雇用機会均等法が施行されたのも1986年でしたね。
 
森林 そういう社会情勢が変わったからこそ、女性も性欲があるんだと主張できるようになって、恋愛感情抜きにしてセックスを楽しめる相手がいてもいいし、本当の意味で満たされるってそういうことなんじゃないの?って思ってきているんじゃないかと。
 
植島 それはそうでしょうね。
 
森林 でも、そういった女性を良しとしない考え方も根強くあるみたいで。
 
植島 まあ僕はそんなに女の人に色々なものを期待していないので、だから不満もないんですけれどね。そもそも僕らの世代は飲みに行っても女性に払わせたことは一度もありませんでした。
 
森林 期待していないのですか?
 
植島 はい。期待はしないで一緒に楽しく過ごすことの方が大事ですから。
 
森林 それです、まさに!先生みたいに、見返りを求めず、お互いに楽しければいいっていう達観した域になることに僕は憧れるんです。だって、そうするとお互いにすごく楽になれるじゃないですか。
 
植島 そうですね。



嫉妬の手放し方
 
森林  その域に達する上で、必ず邪魔になるのが嫉妬という感情だと思うのですが、先生は嫉妬をどうしていますか?
 
植島  嫉妬は16歳くらいからほとんどしていないんですね。
 
森林  ずいぶんと達観した16歳ですね。逆に、16、7歳までは嫉妬していたということですか?
 
植島  そうですね、まだ16、7くらいの時は嫉妬を引っ張っていました。その年齢だと自分の好きな子が本当に自分のところに来るか不安があるじゃないですか。そういう時はかなり揺れました。でも、不寛容さとか、人を羨んだりとか、エゴイズムとか、そういう感情が嫌いで。なんとか克服しようと努めました。僕の家は日本舞踊の家元で、隣も洋裁屋さんで女性に囲まれて育ったということも大きかったでしょうね。人間は好きな相手とは「貞節」な関係でなければいけないっていうんだけど、オックスフォード辞典の定義でも一夫一婦制に貞節っていう義務はないんですね。一夫一婦制とは必ず1人の人としか結婚しませんってことなんだけれども、貞節を守らなければいけないということはそこに含まれていないし、そんなことは一切どこにも書かれていない。
 
森林  貞操観念と一夫一婦制はセットではないんですね。
 
植島  拡大解釈すれば、他にセックスフレンドがいたって構わないということにもなりますね。貞節から嫉妬や不寛容さが出てくるわけだから、なんとかそこはクリアしなきゃいけないなと思っていました。
注)貞節
女性が夫以外の男性に身や心を許さないこと。また、そのさま。
注)貞節に関する認識
一夫一婦制社会においては、配偶者以外の誰とも性的関係を持たないものとされているが、歴史上ほとんどの文化圏において、特に夫が複数の女性と関係を持つ、時には妻に近い扱いをした例が少なくない。男性の姦通が罪に問われたのは、夫婦の家に愛人を連れ込んだり、公的なスキャンダルに発展した場合くらいであった。 このようなダブルスタンダードは現代のイギリスやオーストラリアなどの離婚法にも見ることができる。
 
森林  嫉妬は恋愛感情がある男女間だけじゃなく、同性間でもあるものじゃないですか。なんで俺の方がかっこいいのにあいつばっかりモテるんだとか、俺の方が能力あるのにあいつばっかり出世しやがってとか。そういうのもなかったですか?  
 
植島  ほとんどなかったですね。大学でもうちの学科は研究者として就職することができないことで有名でしたから、他人を羨ましがったり嫉妬したりするヒマもありませんでした。
 
森林  それは、自分に自信があるという裏返しのようなものですか?
 
植島  自信はないですよ(笑)。自分はこういう生き方だっていうのがわかれば、相手もそれなりに対応してくれるでしょう。そのほうが楽だと思っていました。そもそもフランス語で「コキュ」ってあるでしょ?自分の妻を寝取られて気がつかない男のことで、よく笑い者にされるのですが、考え方によってはいろんなことが喜べるなぁと思っています。自分の妻が他の男に寝取られるのが好きだという男性も最近増えているのではないですか。
 
森林  以前付き合っていた女の子で、今日してきた仕事のセックスの詳細を聞きたがるって子がいました。それ聞いて興奮してセックスをしていくっていうそこまでがセットで。
 
植島  喜びに変えるってことでしょうね。女の子によっては嫉妬されたいのもあるから難しいですよね。嫉妬されていないと、愛されていないのかなと疑問を持ってしまうし。
 
森林  確かに。先生は、そういった場合どうやって愛していると伝えるのですか。
 
植島  それはちゃんと口で言えばわかることじゃないですか。
 
森林  でも他の人とやってきてもいいんだよとも?
 
植島  もちろんそうは言いませんけども。結果的にはそういうことも含まれますよね。
 
森林  そういう人が男女ともに増えれば、複数の関係が成立する社会になっていきますよね。
 
植島  女の人にはね、4タイプの男がいると思うんですよ。
 
森林 4タイプですか?
 
植島 「セックスしたい人」と「セックスしてもいい人」と「したくない人」と「絶対だめな人」。
 
森林 なるほど(笑)!
 
植島 なので女性にとってはその「セックスしてもいい人」というのが大事なポイントで、そういう人を女の人はたくさん増やしていけばいいと思うんですよ。一方、男性も「セックスしてもいい人」のカテゴリーに入れるように努力する。
 
森林 そうすれば、楽しく一緒に過ごせる人が増えそうですもんね。どこかのインタビューでも、「女の子には『人を好きになる才能』が一番大事だと思う」って先生は仰っていましたが、好きになるハードルが低いのと、セックスしてもいい人を増やすのは表裏一体な気がします。童貞とか処女を喪失した時の相手を運命の人だってロマンチックに考える人がいますが、そんなことほとんどないんだから色んな人とやった方がいいよって思っちゃうんですよ。
 
植島  いろんな人とやった方がいいかどうかはわからないけど(笑)。嫉妬の話なんですが、学生時代に飲んで雑魚寝とかしているときに、女の子が僕の布団に逃げてきて、Aさんが怖いからってやってきたりするんだけど、そういうのが1番嬉しかったかな。信頼みたいなね。それがずっと今でも気持ちのなかにあるんだけど、そうやって信頼されるのが嬉しい。そうしたら、もうセックスしなくても十分気持ちがいいと思ってました。
 
森林  恋愛は相手を所有することだってどこかで先生がおっしゃっていたんですけども、所有じゃなくて信頼の方が嬉しいと。
 
植島  もちろん、そりゃそうじゃないですか。
 
森林  いや、所有ですよ。みんな、自分のものにしたいってあがくわけですよ。でも、僕、わかります。所有より、信頼がうれしい。男が抱きがちな征服欲とかはあまりなく、仲良くなって信頼を築ける方が大事だと僕も思います。女優さんが男優に求めるものって、かっこよさとか、征服してくる感覚とかじゃなく、信用できるかどうかだと思うんです。じゃなきゃ、僕みたいなじゃがいも面に仕事きませんもん。




植島 いや、森林さんは十分すぎるくらい魅力的だと思いますよ。なにより知的だし。頭がよくない男はやっぱりダメですよ。
 
◆“フラート”という概念
 
森林 先生は世界各地の聖地を研究していますが、ひとりの異性との恋愛結婚こそが理想だと制度に捕らわれている日本では考えられない制度の地域とか、ありますか?
 
植島 たくさんあります。北部ナイジェリアでは妻が最初の夫と離婚せずに他の男性と結婚する例が報告されていますし、西太平洋のウリシ島に住むミクロネシアの漁民は祭の際に男女が連れ立って森にピクニックに出かけ、くつろいでセックスをします。このピクニックは夫婦や恋人で行ってはならず、男女の数が揃わない場合はセックスの相手を共有するとかします。また、イヌイット(エスキモー)の間では北極の長く暗い夜を楽しむために男女でセックスの相手を交換し合うゲームをする習慣がありました。


森林 た、楽しそう……(笑)。




植島 楽しそうですよね。でもセックスって楽しいものですからね。僕の自宅を訪れる女性のほとんども、セックスはあまりしませんが、楽しんでるように見えますけれど。逆に苦しんでる男性の方が増えてるくらいでしょうか。
 
森林 女性が権利を得たり性欲も自由に謳歌できていく中で、男はその変化についてこれないんじゃないかって、『官能教育』の中でも仰ってましたよね。
 
植島 そうですね。男性は戸惑ってると思う。これまでは、男性が浮気しまくって女性が怒るという構図だったのが、だんだん女性側の反撃が強くなり、男性も自由に遊べなくなってきて、そうすると自分の心の底にあった潜在意識というか、自分も女のほうがいいという、そうした感情が強くなって出てくるんじゃないかと思うんですよ。
 
森林 それは、『官能教育』にあった、男性の潜在意識に女性に対する憧れがあるってやつですね?
 
植島 そうそう、男性の草食化というのは一時的なことじゃなくて、そういう流れの中で時代がつくりあげたものですよね。これはさらに進行すると思います。フロイトが研究した症例ですが、「シュレーバー症候群」というのがあって、ドイツの裁判官、詳しく言うとドレスデンの控訴院院長シュレーバーがある日突然発病するのですが、それは「もし自分が女になって男に犯されたらどんなにすばらしいか」という妄想にとらわれたことに端を発するのです。こういう例はいくらでもあって、ベルギー映画「ある裁判官とその妻」も、またちょっと違いますが、すばらしい倒錯映画ですね。
 
森林 女性に対する憧れというのは、具体的には?
 
植島 男は地位が高くなればなるほど「女になりたい」って感情が出てくるようになるんですね。男として生まれてだいたい好きなことはやってきたので、これからは女になってみたらどんな気持ちになるんだろうと思うようになる。
 
森林 具体的な一例としては、女性になって、セックスされてみたいということもですか?

植島 そうです。でも自分が無理して女になろうとするよりも自分の妻や恋人に身代わりになってもらって彼女の喜びを分かち合おうとする傾向が強くなっていますね。それって鎌倉時代の文献にも残されているんですよ。
 
森林 寝取られってやつですね。AVや漫画やアニメの中でも「寝取られ=NTR」ものは今や大人気でひとつのジャンルとして確立されていますが、寝取る側でも、寝取られてしまう旦那でもなく、寝取られてしまう奥さんに男性視聴者が感情移入するということですね。なんとなく、理性とは裏腹に快感に溺れていってしまう姿には、悲壮感より、一種の解放感がありますもんね。自分からその道に行ったのではなく、誰か第三者によって行かされたのだから仕方ないという建前もありますし。でもそれって、先生が先ほど話してくれた、一夫一妻の恋愛結婚至上主義ではない世界においてはまったく関係のない話になりますよね。
 
植島 はい。聖地のほとんどには寝取られなんて概念はないですからね。南部エチオピアと北部ケニアにまたがる地域に住むボナラ族の社会では既婚女性のほとんどに愛人がいる、と言われています。文化人類学の田川玄教授が書いた『セックスの人類学』(春風社)のなかの論文では「男が戦いに行くように女は愛人をもつ」と書かれており、女性も愛人がいないと弱虫だと罵られることもあるとさえ言われています。
 
森林 そういった世界のあらゆる性の価値観を知るだけでも、男女共に固定観念から解放されてすごく生きやすくなる気はします。
 
植島 そこが難しいんですけれどもね。ただ、僕はもう少し考え方を柔軟にした方がいいんじゃないかと思います。セックスしたら結婚とか、もう終わりとかなんとかってことは全然ないわけじゃないですか。セックスしたからって、相手の事がわかるわけじゃないし。セックスを特別視しないというか、まあ、ある程度特別視しちゃうんだけど、セックスに向かって二人の間がこう親密になっていくとか、そんな幻想はないと思うんですね。なんだろうなあ、セックスとその恋愛を一括りにしないほうがいいという。
 
森林 すごく共感します。『官能教育』の中にあってとても良い言葉というか概念だと思ったのが、“フラート”です。相手を誘ったり触ったり、イチャイチャするっていう概念。あれは日本人には全くない文化だと思いました。
 
植島 そうですね、フラートほど日本語に訳しにくい言葉はないですね。視線のやりとりやちょっとした触れ合いから、誘う言葉、人目を忍んでするくちづけ、女が男に媚びること(コケットリー)、相手を思ってワクワクする気持ち、恋愛の前段階の親しい行為のことをいうんですけどね。僕たちはそれをすぐに恋愛に結びつけるけど、相手を好きになるところから恋愛に至るまでの間にはとても大きな世界が広がっている。恋人未満で友達以上っていう中間領域ですよ。実はここがすごく魅力的な領域だと思うんですね。僕はかつて「フラート」について講義をしたことがあるんですが、ある女性が次のように言ってくれました。「フラートにライトを当てるのはとても新鮮な気がします。その続き(恋の成就)がなければ、その部分は0点かと思っていたからです。恋愛や結婚がダメになったら、それまでのすべてがムダかと思ってきましたが、その途中に大きな幸せがあると考えると、またずっと幸福な気持ちになりますね」。
 
森林 確かに。友達なのか恋人なのか、付き合っているのかそうではないのか、はっきりしたがりますもんね。逆にはっきりさせず今のままでいいじゃんって言うと、都合がいいだけでしょって悪者扱い。フラートのいいところは、仲良くなった後に、会い続けたり付き合ったりする可能性を探ったりしなくても良いという。フラートは恋愛やセックスの導入行為ではないってことですもんね。
 
植島 そうなんです。そこで僕が10年以上も実験していて、興味を持っているのが“誘惑”という概念。
僕の部屋に男女2、30名集めて、“誘惑のバー”ってタイトルつけて交流する遊びを不定期で10年くらいやっているんですけど。
 
森林 どんな結果が出たのですか?

植島 結果は出てないというか、経過観察といいますか。この会合のルールはセックスだけはしてはいけないというもので、あとは何をしてもいいと。
 
森林 キスも?
 
植島 ああ、もうキスは、入った瞬間からゲームでキスが始まるようなこともあるんですけれども(笑)。
 
森林 そのバーに参加しているのは先生の学生なんですか?
 
植島 友人とか元学生ですかね。誘惑しろとは言わないけど、まあ楽しく過ごそうということではあるんですけども。誘惑したりしあったりするっていうのは、裏に抑えておいて、いろんなゲームをしたり遊んだりという会合。だいたいいつも朝までやってましたけど。
 
森林 実際そこでカップルが成立していきますよね?
 
植島 僕はあまり干渉しないので、よくわかりません。でも開催した日に僕の家のガレージでセックスした男女がいたとか、いないとかいうウワサも聞いたことがあります。
 
森林 それはあるでしょうね(笑)!
 
植島 僕はあまり関知しないので。というか、まあ、セックスだけが目的な男女の関係というのが、ちょっとおかしいんじゃないかと思っていたので、ちょっと違った喜びをみんなで見つけようじゃないかということで、始めたんですけどね。男女ともに、“ときめきたい”と言ってる方が多いように思います。
 
森林 不倫も、肉欲ではなくしばらく忘れてた“ときめき”を取り戻したいってことで始める人がいるくらいだし。
 
植島 そうですよね。恋のときめきとか、胸がドキドキするとかね、誰もがそういうものを求めていますからね。
 
森林 それは発情とは違うんですか?
 
植島 発情は女の人への言葉ですね。キスしたり、縛られたりすれば。
 
森林 縛ったりもするんですね?
 
植島 縛ったりするのが好きな男の人もいたりするのでね。
 
森林 なるほど。でもセックスをしないっていうルールがあるから、そういう意味で安心に楽しめるっていう感じですかね。そのバーにくる男性には“さあ、オトすぞ”的なセックス目的の男根主義の人も少なそう。
 
植島 男性はわりと受け身の人が多かった。というか女性は受け身の男性を求めていますからね。それを心得ている男性でないと呼びません。
 
森林 よくモテ講座とかでも男は聞き役に徹しろと書いてあったりしますけど。
 
植島 そうですね。なんでこんな話を延々としているんだって思うようなことでも、なにしろ聞き役に徹することが一番です(笑)。




セックスは、アメリカではコミュニケーション、日本では妄想
 
植島 ヨーロッパの性愛、セックスについてですが、とくにアメリカではまずなによりコミュニケーションなんですよね。
 
森林 コミュニケーション?
 
植島 西欧では性愛はその根本からコミュニケーションであって、合意でのSEXかレイプか、そのどちらかでしかない。それに対して、日本では性愛はある種<非現実>のものであって、さまざまな幻想(妄想)から組み立てられることになるのです。だからこれだけ、AVが流行るんだと思うんです。だって世界中旅行して、日本のAVに勝るものはないですからね。圧倒的じゃないですか、制作本数も、内容のバラエティも。昔はスウェーデンやフィンランド、ドイツとかで面白いものがあると集めたりしていましたが、いまやそれらとは比じゃないですよね、日本人の妄想力っていうのはすばらしい。
 
森林 妄想力が高いのは、果たしていいことなのでしょうか?


植島 どうでしょうね。いずれにしても、こんな国は日本しかないんじゃないですか。僕が調査しているネパールやインドネシアやアフリカ、モロッコとかエチオピアではほとんど皆無です。SMとかいうこれど、それに近い行為ですら皆無です。不思議なくらい断絶がありますね。
 
森林 聖地ではどういったセックスが良いセックスというか、豊かな楽しいセックスなんですかね? 
 
植島 そうですねえ、イスラームやヒンドゥー教のように、複数婚が安定社会を作っている地域もあり、日本でいうところの貞操という概念がない地域も多いですね。聖地でのセックスは快楽と生殖がすべてではないかと思います。
 
森林 快楽でも生殖でもなく、妄想のセックス。これは日本が突出している傾向なんですね。では、そもそも妄想とはいつの時代から生まれたものなんでしょうか?
 
植島 妄想や非現実的なものが西洋で取り入れられたのはそれほど昔のことではありません。18世紀にもその土壌はありましたが、主には19世紀ですね。SMとかフェティシズムという倒錯行為は19世紀にできたものですから。それまでは、性愛の技術が発展することはあっても、妄想とか非現実を取り入れて考えることは少なかった。
 
森林 エロい妄想は人類誕生とともにあったものではないんですね。
 
植島  フランスの哲学者ミシェル・フーコーによれば、それらが顕在化したのはおよそいまから200年ほど前のことになります。
 
森林  なんで突然現れたのですか?その発祥はどんなものだったのでしょうか?
 
植島 これは時代の要請だと思うんですけど。ちょうど産業革命と重なっているんですね。女性の労働者がいっぱい登場してきたわけです。今でいう自立とはまた少し違うんですが、自由主義とナショナリズムが広がり、パトロンとしてのブルジョワジーの登場という大きな歴史的変化もありました。そうした背景のもとで生まれてきたんじゃないかと思いますけれどもね。カサノヴァとか読んでもSMなんてまったく出てこないですよね。いわゆる変態行為の数も限られている。3Pとかは普通にありますけれどもね。
注)ジャコモ・カサノヴァ
18世紀の作家。その女性遍歴が有名で、生涯の経験人数は1,000人以上とも言われている。
 
森林 産業革命と女性の労働者の登場だったりがエロい妄想の登場とどう関係するのでしょう?
 
植島 ヴィクトリア朝時代は人類の歴史上、最も規律の厳しい時代なんですよ。ピアノの足に布をつけて隠していたくらい。
注)ヴィクトリア朝
1837~1901年。産業革命による経済の発展が成熟に達し、イギリス帝国の絶頂期であるとみなされている。
 
森林 へー! あれって女性の足を彷彿とさせるから、それで隠していたってことなんですか?
 
植島 そうなんですよ。床を傷つけないとかではなくてね。また、言葉狩りも徹底していて、お尻と言わないで腰と言いなさいとか、オッパイと言わないで胸と言いなさいなどということもあったし、人類史上で最も厳しい時代だった。
 
森林 ヴィクトリア朝時代の抑圧、社会の厳しさがあったからこそSMが開花したと。
 
植島 セックスの世界というか、SMの世界は、二人がある意味では演劇的な関係となって、協力して何かを作っていくという関係なので、抑圧された時代により没頭しやすかったということもあったでしょうね。SMは人間の歴史上、画期的な発見でした。妄想が現実の性を超えたわけですからね。19世紀のイギリスでは鞭打ちっていうのが流行ったこともあって、そうしたことも妄想の温床だったんでしょうね。
 
森林  鞭打ちということだったら、ずっと昔の何百年も前の奴隷は妄想しなかったのですかね?
 
植島  そんな余裕はなかったでしょう。いつかそこから逃れたいという意味での妄想はあったかもしれないけど、性的なものはまた違うでしょうね。キリスト教では、告白とかが1番セックスと繋がるところだったと思うんです。教会での懺悔とか。
                                                                        
森林  どういうことですか?
 
植島  神父さんに、悪いことをしましたとか、こんないけない妄想を持ってしまいましたとか、普通は秘密にしたいことを告白するというのは結構シビアな問題じゃないですか。
 
森林  確かに、カミングアウトですもんね。精神的負担も大きいと思います。
 
植島  だから実際セックスとすごく繋がりやすかったんですね。
 
森林  それで、西洋は性愛の技術から離れて妄想の方に向かったと。日本のセックスは幻想が特殊だと先生はおっしゃっていて、19世紀にヨーロッパで生まれた妄想がさらに進化しているのが日本なんですかねえ?
 
植島 そうですね。これ以上何処まで行くのかなあと思ったんですけど、限界を感じませんか?
 
森林 AV業界で男優として前線にいて思うのは、本当に想像の進化がすごいなと。ファンタジー色を強くしていくと、どう見ても作り物になっておバカ感満載な方向に行くんですけど、それがまた意外と売れたりしているし、それと同時に、リアリティを追求し現実に近づけるアダルトVRが主流になってきてもいる。いずれにせよ、現実ではないという点では妄想の道を突き進んでいますね。
 
植島 今、VRすごいですよね。僕はほとんど見たことがないんですけど。
 
森林 VRでは見ている人があたかも自分がされているかのような、視覚的な感覚に陥るんですけれども、自分がこの業界にいながらこんなこと言うのはアレですが、VRモノが売れ過ぎちゃったら現実の世界でリアルな相手とセックスしなくなっちゃったら寂しいなっていう危惧があって。二村ヒトシさんが、「みんないずれセックスから卒業していっちゃう」って言っているんですけど、本当にそうだなと。想像力やコミュニケーション力を必要とするリアルなセックスは一部の人の娯楽で、快感はAIの担当になっていっちゃいますよ。
 
植島 二村さんらしいですね(笑)。その可能性はありえますね。まあでも、いま急激にそういう時代に入りつつあるじゃないですかね。僕らはみんながセックスを一番強烈に求めている時代に生まれましたから、今のようにみんながこんなに穏やかになるとは思いませんでしたけど。
 
森林 僕にとっても、男の快楽の王様はセックスなんですよ。現実でのリアルセックス。でも今の10代20代の人達は、必ずしもリアルセックスに強烈に憧れているというのがなくなっていて。
 
植島 草食化ですよね。もうどんどんそうなるんじゃないですかね。止めようがない。トレンドですよね。
 




妄想だけではなく体を使って
 
森林 それはその、誘惑のバーで火をつけることは、出来ないですかね?
 
植島 やっぱり誘惑という言葉は大切ですね。でも、よっぽどうまく運営していかないと難しい問題がいっぱい出てきますから。
 
森林 そしてやっぱり、誘惑のバーで火がついたら、オナニーで済まそう、ではなくて、現実で、肉体としての接触を求めますよね。
 
植島 たしかにそうなるでしょうね。実は、「誘惑のバー」にはモデルがあったんです。80年代に原宿のスパイラルホールでジャン・リュック・ヴィルムートっていうフランスのアーティストが「誘惑のバー」というイベントというかインスタレーションをやったんです。それはどういうものかというと、まず「あなたは誘惑する側になりますか、される側になりますか」と聞かれます。誘惑する側の部屋に入ると、画面に向って色々と誘惑の言葉を言うのです。誘惑される側になると、会場のモニターでそれを見ながら誘惑される側になるという僕はとても期待して行ったんだけど、意外とつまらなかったわけですね。
 
森林 直接、誘惑し合うのではなくて、画面を通して誘惑するイベントだったんですか。
 
植島 そう、画面を通してなので接触も何もないわけじゃないですか。それではみんな安全地帯にいるわけで、まったく刺激がありませんでした。それをもっと肉体的な接触のある本当の「誘惑のバー」をつくりたくて、90年代から実現を開始していろいろやったんですけれども。
 
森林 やっぱりエロは妄想で進化していったとはいえ、身体はおざなりに出来ないんだよっていう。
 
植島 そうです。身体がすべてですからね。
 
森林 そうなると、やっぱりセックスというのは、身体の接触という意味では一番濃厚だと思うんですけれども。
 
植島 そうですね。セックスは基本でしょうね。人間が生きていくうえで最も大切なもの。
 
森林 セックスでしか味わえない多幸感というか、一体感っていうのがあるんだって。
 
植島 そうですね。ただし体の結びつきは二人の関係を何か保証するものではないということ、相手を思いやる気持ちや心の揺れなどは互いに移ろいやすいものであるということ、それを意識するだけでも、ずいぶんとあるがままのセックスを楽しめるようになると思いますけどね。
 
森林 今は繋がろうと思えばすぐに人と繋がれちゃう時代だから、繋がっていくまでのハードルは低いけど、深く繋がっていくにはそれなりの時間や手間が必要で、クリックするだけじゃ手に入らない。だけど、繋がるのが簡単だったからその先も簡単に考えて、結びつきだの絆だの、より強い繋がりを保証する何かを安易に求めてしまうか、傷つくことを恐れ繋がりを放棄して妄想で間に合わせるかなんですよね。
 
植島 そうですね。でも、人との間には距離があるということ、その距離が必要だということを認識するとより楽になれるのかも。だからこそくっついたり離れたりできるんだと。
 
森林 そうですね。今日は色々なお話をありがとうございます。誘惑のバー、僕もいつか参加してみたいです(笑)。




司会進行:河合桃子
写真撮影:高橋定敬
 
《 対談を終えて 》
 対談初め、教授と呼ばれる方と普段接点がない僕は、デビュー作の女優のように緊張していました。でも、植島先生の人当たりの良さのおかげで、後半はリラックスできるようになりました。初めてお会いする植島先生は、物腰が柔らかく、フェミニンというか中世的な雰囲気でした。話していただいた内容の端々からもわかる通り、もの凄く肩の力が抜けた自然体な方です。このスタンスは、持って生まれたものと、色々な見識を得ていくことで作られたものなのではないかと、対談内容を振り返って思っています。
 宗教人類学者として40年以上に渡り多くの場所に調査しに行かれている先生の見識の広さは、歩く学術書といった感じで、あらゆる土地の様々な事象が先生の口から次々に出てきます。そんな先生が仰っていて印象的だったのが、「どこの土地に行っても、宗教と性に辿り着くんです」という言葉です。この言葉は、性を探求していきたいと思っている僕にとって、一筋の光のように感じられました。性を探求する先に何があるのかずっと模索しているのですが、言葉を超え、文化を超え、全人類に共通する何かが性にはあるのだ示してもらえたような気がしたのです。
 言うまでもなく、生殖としての性は、全人類に共通して関わってくるものです。それ以外の、肉体的快感や心の交流、性暴力といった性の一面も、可能性の一つとしては全人類に共通してあるはずです。生殖を含む性の全てが、その文化や時代、社会によって意味づけされたり、存在自体までもがコントロールされます。その影響を個人が受けていくのですが、そこに無自覚でいる人は多く、何かによって決められた性のあり方に自分を当てはめていこうとしてしまいます。そうすると、窮屈さや苦しみが生まれます。自分の性が間違っているのだから、もっと性を自分でコントロールし、文化、社会、コミュニティに適したものにしていかなければと努力します。もちろん、他者に危害や迷惑をかける性暴力は否定すべきものですが、それ以外の大半の性の部分は、コントロールする必要ないんじゃないか、コントロールなんてできないんじゃないかと思うのです。今ここで言う性とは、性別といったものと、性欲といったものをひっくるめていますが、いずれも意識的に自分で決定したり出来るものではなく、自然と元からあったり、勝手に湧き上がってくるものです。性の自己決定権ということがLGBTについて考えていく時に取りざたされますが、元からあったものに立ち返れる決定権が各自にあるんだと、僕は捉えています。性の元々がそうなのだから、まずはあるがままを、あるがままに捉えるべきではないでしょうか。
 植島先生が、今までの生涯を通し一貫して、社会の約束事を疑うという姿勢でいらっしゃるのはかっこよく、僕も見習いたいと思います。当たり前な顔して目の前にある社会を、当たり前だと思わない。自分がいる社会が必ずしも正解だとは限らない。それは反社会的であることを目指すべきだということではなく、盲目的に社会を信じるなということです。では何を頼りに正解を見つけていくのかというと、歴史や他の文化、社会にも目を配り、そして自分の内面を見つめ、誰かによって決められていることがどうしてそうなっているのか、はたしてそのままでいいのかと問い続けるスタンスでいればいいと思うのです。その時に、性は、とても重要な視点となることでしょう。これからも引き続き、性を探求し、人間と自身と向き合っていきたいと思います。
 最後になりましたが、植島先生、お忙しい中、貴重なお話をしていただきありがとうございました。植島先生を紹介してくれた馬場尚子さんにも、この場で改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。
 
 
森林原人
 

とても面白かったです!

はじめまして!楽しく拝見させていただきました!
昔からどすけべで今も変わらずどすけべです笑
大人なって結婚して子供もいます。性とはオープンに付き合っていますがどうせなら自分の性を使って成長したいと思うようになりました!
そんなとき代々木さんのブログに出会い森林さんにも出会いました。
お二方の話はほんとに面白くて色々な発見と成長をくれます!
この対談も呼んでいてとても面白かったです。性の本質がわかれば人間的にも成長できると思うとワクワクします!どこがこうでこうだからとかはわからないですが、、いつもなにか歯痒さがのこります笑
森林さんのイベントなど参加したいですがなかなか遠方や忙しかったりで足を運べませんが、これからも頑張ってください!今後のご活躍を期待しています!

 2018.09.07
 ちゃんまー

とてもおもしろく、

とても興味深い対談内容でした。
心に残ったのが、日本にはない「フラート」という概念があることと、一夫多妻制であっても貞操まで約束させるものでない国が多くあるということそれと、教授の言われた「体の結びつきは二人の関係を何か保証するものではないということ、相手を思いやる気持ちや心の揺れなどは互いに移ろいやすいものである」という言葉です。
関係ありませんが、こういった話を実際に会ってできるコミュニティがあったら楽しいだろうなと感じました。
このシリーズを今後も楽しみにしています!

 2018.09.09
 そらまめ